◆ 不完全だっていいじゃない。パリ・メトロの仏頂面


 

これから待ち合わせのために外に出る。「3時ごろに、Nation駅で」。

スマートフォンで「乗換案内」を無意識に開き、閉じる。

この街のメトロに、時刻表はない。

 

地下鉄への入口は狭く、階段しか伸びていない。雨の日は、道に舞って落ちた紙屑が、その階段に水浸しで張り付いて震えている。薄暗い蛍光灯で寒々しく浮かぶメトロの構内。スプレーで描かれた壁の落書き。ホームの広告は、時々破られたまま無残な姿で残されている。

 

パリのメトロは、地上の華やかさを忘れさせる。道行く人は皆、「移動」しか感じさせない。

 

ホームの電光掲示板は「あと数分で電車が来る」とだけ告げる。日本のホームで響き渡る「足元にお気をつけください」も、「到着が大変遅れましたことをお詫び申し上げます」も、ない。

 

予定の時間を厳守したい場合、きっとあなたは、パリのメトロの寡黙さに焦りを覚えるだろう。

 

電光掲示板が告げた時間内にメトロが来る保証はないし、時折彼は何も告げない。どうしてメトロが来ないかなんて、誰も気にしていないし、誰も教えてくれない。

 

―それで何か困りますか?

 

そう訊かれれば、勢いよく反論しようとして、はたと言葉に詰まる。別に、困らない。何故なら、フランスの知人は、時間の遅れを気にすることなどほとんどないから。

 

そして、パリのメトロは不思議なもので、「あまりに遅れすぎだ」と憤慨する前には到着するのだ。移動手段としての機能は、きちんと果たしているだろう。彼がホームに到着するとき、そうやって胸を張る仏頂面を想像してしまう。

 

そういえば、実に彼らしい姿を見たことがある。工事中のホームだ。

 

ある日メトロに乗ると、車両内の路線図のある駅から駅の間がシールで消されている。パリの中でも中心地、利用客の多い駅だ。東京メトロに例えるならば、銀座線の銀座から三越前までが数日間利用不可能と言ったところだろうか。

 

「通勤利用者はどうするんだろう」などと考えているうちに、走行中の車両がその駅区間に差し掛かった。停車することなく、ゆるやかなスピードで流れていく数駅。

 

壁を剥がされて丸裸になったホーム。むき出しの配線、無造作に置かれた塗装用の缶、散らばる工具たち。たった今作業をしていた空間だろうが、偶然にも作業者は不在だった。

 

まるで、展示品を見たような気分。完成前の駅の姿は、私にとってそれほど新鮮だったのだ。

 

東京で夜深くまで酒を飲み帰る折、工事の作業者たちとすれ違うことがある。終電時刻とともに働き始める彼らの姿に、ハッとする。彼らが、明日の駅を美しくしている。

 

いつのまにか、日本は美しくなっている。できる限り完璧な姿で、できる限り予定通りに、変わらない日常を維持する。メトロで数分到着予定時刻が遅れれば、謝罪のアナウンスが響き渡る。

 

それに比べてパリのメトロは時刻表がないし、寸前に表示される掲示すら遅れる。工事が必要なら堂々と休む。ホームは正直、美しくない。

 

―それで何か困りますか?

 

答えはNO。どれもこれも、たいしたことではないのだ。極めて合理的で無愛想な姿勢を貫かれ、一周して安心を感じる私がいる。別にいいか、と。

 

不完全でも、目的を果たしていれば、いいじゃん。

 

街が不完全さを許容する。遅れを、メンテナンスを、停止を、汚れを。どれも街には必要な余白であり、気を抜く瞬間である。その中で生きる人々も、お互い気に留めず、同じように息抜きしながら生きている。やることはやっているんだから良いでしょう、と。

 

パリはそういう街なんだと、殺風景で汚れたメトロのホームに立つたびに思う。少し背を丸めて、鼻を小さく鳴らしながら立つ、外向きの顔を造らない私の不格好さも、このホームではお似合いだ。

 

やがて仏頂面の彼が、ホームにやってくる。

 

今日も待ち合わせに遅れそう。それでもまあ、いいだろう。唇の端を少し上げて、さまざまな匂いの入り交じるメトロに、私は乗り込む。